2011年8月12日金曜日

「創りたい?」かを考えてみる(その2):プレイヤーとクリエイター

さて前回、「創りたい」ことに関する必要性を考えました。
そして、「創りたい」かは創って試すべき、ということを述べました。

本校を訪れる皆さんのよくいう話は、

「どうやって作るのか知りたい」


というものです。それが見学の動機だったり、入学の目的です。本当に作りたかったならば、例えばJavascriptで作るとか、Nscripterとか、或いはもっと高度な、こういったものも在ります(http://game.watch.impress.co.jp/docs/series/3dcg/20110331_436128.html)。

でも、そこに至っていないのは惜しいです、作るのは意外と簡単に始められます。

こういった「始めていない」人たちは、作りたい欲求はあまり強くないのかも知れませんが、そうした人が多いのは事実です。作ったら面白いと思うかも知れないのに。

プレイヤーとしてゲームに関わる処で自制しているのは、勿体無いです。作ったら面白いと思う人は居るはずですし、実際に学校に入ってから「面白い!」と思う学生は多いです。
じゃあ、何故、始めないのか?それはプレイヤーとしての楽しみが無くなる事を恐れているからでは無いでしょうか。

対話は誰としているか

最近、Pixivでこんな事件がありました(http://www.pixiv.net/info.php?id=682)。

自分の絵を弄られて楽しい人が居る訳はありません。一方で、二次創作の絵も多く上げられているのが事実です。それらも、一次創作が在ってそれを弄っている、という感覚を版権を持つ側は考えますが、二次創作している人たちは、画面を「スケッチ」しているだけの感覚なのです。富士山を描くように、まどかを描きます。その富士山を作ったであろう神と対話している感覚はありません。

一次創作者は同じフォーマットなので「パクられた」感がありますが、描いてる方はそうなりません。ゲームクリエイターは、ゲームを通じてプレイヤーと対話している感覚ですが、プレイヤーはそこに在るキャラと対話しています。

プレイヤーからクリエイター側に回るということは、実は存在を深くは考えていなかった作者に頭を巡らせるということで、ぬいぐるみの中の人を覗くという行為に近いものがあります。当然、中に人が入っているのは知ってますが、ディズニ好きはミキーマウスはそのままにしておきたい、というのが自然です。

ゲームをいよいよ、仕事として選ぶ段まで、中の人は覗かないようにしておこう、ということでは無いでしょうか。つまらなくなるから。

でも、話が戻ってしまいましが、作ると楽しいですよ。

8/20に体験入学あります、またそこでお話できると好いですね。